認知的安全性(Cognitive Safety)
割り込みや脱線といった「自身の認知活動が阻害されるリスク」の度合い。特にそのようなリスクの無さ。
概要
認知資源の性質:
一日も保たないほど有限であり、切れたら睡眠しない限りは回復しない
何食べるかの判断やネットサーフィンなど、身近な活動でも減るし、有限性から考えて軽視はできない
だからこそ優れた経営者ほど徹底的に無駄を省きます。同じ服を着る例は有名ですねsta.icon
コンテキストスイッチングは心理的に辛いし、認知的にも多くの資源を要する
最適な認知活動とは:
認知資源を主観的に有効活用できていること
つまり主観的に「こんなことに頭を使いたくない」と思っていれば、それは有効活用ではありませんsta.icon
自分の信念とペースに基づいて判断を行えていること
端的に言えば自分のペースで仕事ができているということですsta.icon
認知資源の使い方がある程度以上の深さと安定感を伴っていること
端的に言えば、深い思考ができていることです。あるいはもっと単純に、集中できていることです。少なくともマルチタスクに振り回されていないことですsta.icon
勘違いされがちですが、作業への没頭は当てはまりません。作業は認知資源をさほど使わない営みであり、心地よくはありますが、認知的ではありません。要はあまり頭を使っていません。とはいえ、いわゆるプロと呼ばれる人達は、この境地で仕事をこなします。そうしないと圧倒的物量とスピードに耐えられませんsta.icon
認知的安全性が下がるとき:
外部の状況からの割り込みが多いとき
マイクロマネジメントされている、プロジェクトが火を吹いている、恒常的に通知の多い仕事の仕方をしている等
割り込まれやすくなる
体調が悪い、モチベーションが薄い、文脈がわからなくて方向性を定められない(見えない)等
脱線しやすくなる
状況が進展したとき
ボールを渡した、ボールが返ってきた、報連相を受けた、情報を見た等
要するに待ち状態から進んだということなので、次に進めるために進展させるために何らかのアクションが起こりやすくなります。あるいは単に何か来たからとりあえず反応する&権力者なので周囲はその声を無視できない、との構図もよく見られますsta.icon
背景
認知資源の重要性は改めて強調するまでもない――と思われがちですが、そんなことはなく、まだまだ軽視されているのが現状です。実際、毎日同じ服を着るといった「認知的にはごく当たり前の営み」すら変人扱いされがちですsta.icon
私は現代であっても、まだまだ認知資源は軽視されていると感じます。時代はVUCARDであり、各自が各自なりにフルコミット・フルダイブして思考を行うことで、世の中はより花開きますが、意識が追いついていません また、プロ含む成功者であっても、単に圧倒的実力による作業を進めているだけです。通常それだけでもたいていの事は成せますが、本質的に難しいことは歯が立たなくなります。たとえば📖Remotismで示すようなデフォルト・リモートな働き方は未だにまともにできていません。そういったことを考え、試すだけの認知資源あるいは認知的習慣がないからです もちろん万人に認知のエキスパートになれ、などと言っているわけではありませんが、現状は明らかに軽視されています。たとえば毎日同じ服を着る営みがもっと市民権を得ればいいでしょう。それは認知資源の重要性がそれだけ認識されていることの証明となるからです
認知の尊重、その初動をつくりたいです。知的生産者の出番です。今回は心理的安全性の言葉を借りて、認知的安全性としてみました
違い
心理的安全性は対人関係のリスクを取れる度合いを指します。たとえば率直なコメント、提案、反論は(直接的に争いになる、あるいは自分の意見でスルーされて自分が不愉快になる等により)対人関係に悪影響が生じますが、心理的安全性があるとその心配がなくなります。そういったことをしても大丈夫だと思える状態になっているのです
一方、認知的安全性、認知活動のリスクを取れる度合いを指します。早い話、割り込みや脱線なく、自分のやりたいことに集中できるよね、ということです